若い頃は何をやっても楽しく、悔しく、ほろ苦く、虚しくて、でも毎日が充実していた。私はアコムで夢のサラリーマン生活を送ることが出来ました。その断片を列記すると・・・・・
◆入社した当時に城山三郎の「風雲に乗る」を夢中に読んで夢を見ていました。日本信販の創業者のサクセスストーリーです。入社したアコムもこのように大会社へ成長するだろうかと思っていましたが、見事に業界1、2へと成長して今では日本信販(現三菱UFJニコス)と兄弟会社となりました。
◆社員の頃に株式積み立て預金が社内制度であり、月々積み立て、途中で株式を購入しました。その頃は株式が上場するとは全く思っていませんでしたが平成5年に店頭公開、平成6年には東証2部へ上場しました。その上場審査にローン部門代表として説明役を務めることが出来ました。そして株式上場で上場利益も少しだけ恩恵に預りました。
◆この会社へ入社するとまず配置されるのは営業店でした。お客様を迎えて金銭貸付して返済して頂く拠点です。しばらくすると店長となって地方:前橋に転勤したり、新店舗を立ち上げたり、新規集客・顧客管理・与信・延滞管理・業務分担と社員管理等の業務ノウハウを身に着けることができ、地区マネージャーとして地区の数店舗を管理運営に携わったりして多数の部下を持たせて頂きました。
◆営業本部へ赴任してからは激動の時代にたくさんのチャンスを頂きたくさんの業務・施策をやらせて頂きました。
昭和58年の貸金業法改正でアコムも嵐の飲み込まれ店舗統廃合、結果として社員リストラがありましたが、その時にメイン銀行の三菱信託銀行から検査チームが派遣されてきて経営状況、営業状況を1週間かけてヒアリングがあり、ローン営業の説明役で立ち会うことになりました。この時、「バッファ、バッファ」と難しい言葉が行き交い経営企画部長が巧みに説明されていました。あとで予備費のことかと分かりました(笑)この時の検査チームのリーダーは銀行の検査部長であり、後に当社に転籍されて法人部長、経営企画部長をされ、最後は縁があって私が代表取締役をしていたアイアール債権回収の常勤監査役に就任して頂きました。縁とは不思議なものですね。
◆営業本部で営業教育課を担当することになり、何をしようかと悩んで外部の会社を研究していた時に「QCサークル発表大会」があちこちで開催されていました。QCサークル活動?トヨタ、リコーなどで生まれた現場改善活動であり、PDCAサイクル・データ分析・改善提案制度・発表大会などのQC推進手法は実践教育となって自然にそれらの知識を取得するものです。社員が主体的に現場の問題を改善する、それは営業教育課の仕事として集合教育(OFFJT)でなく現場教育(OJT)なので、この活動は少人数の支店での現場実践教育として最適であると思い本部長常務を説得して、社長には詳しく説明せずに実践教育の一環として導入することになりました。
◆QC活動を全店へ導入して全国発表大会を東京、大阪、福岡、札幌と回を重ねて支社をめっぐているときに、社長よりこのQC活動を「CS活動」へ変更できないかと相談されました。QC活動の目的は「会社のため、お客様のため、職場・自分のため」会社を良くする活動なのでそれを「お客様のために」を一番にすることは簡単に変更できますと、その後はQC活動の仕組みをそのまま生かして名称を「CS活動、CS経営」となりました。
◆貸金業法改正によって「みなし利息(グレーゾーン金利はお客様の任意の返済は有効とみなす)」への業務対応をする必要がありました。「任意返済」でなければなりませんから、延滞者へは督促、請求ではなく返済を支援する応対に変更することとなり請求マニュアルから「請求をカウンセリング」に変更して「カウンセリングマニュアル」に改定することにしました。またバラバラであった与信・CL設定を標準化するためにCL設定研修の推進、与信マニュアルの制作、与信スコアリングの開発、与信スコアリングのシステム導入など営業統括部では多数の業務改善、業務システム開発に携わりました。
◆貸金業法改正から業法対応が出来てきて他社も新店出店が激しくなって来ました。アコムも半期で95店を出店しました。95店舗も出店すると社員数も300人程増加して人件費、広告費などが翌年は12ヶ月加算され、しかし、利息収入はそれほど増えないから手なりであれば収益源となります。その時、社長からポツリと「経費が掛からない店舗を作ることが出来ないか」、その時はうーん!でしたが、宿題として考えることとしました。この時は本気というより「経費が掛からない無人の店舗が出来たらなー」の感じでした。
◆その後、いくつかの業務を担当するうちに本気で無人の営業店ができないかと考えるようになり、自動契約機、むじんくんが誕生したのです。無人契約機のことは「むじんくん物語」で詳細をお話します。
◆消費者金融業は、「集客する営業店で与信して貸付して回収する、延滞したら請求する」という、それほど難しい業務ではありませんが営業店をどこに出店するか:マーケティングノウハウ、どのような与信をするか:与信ノウハウ、どのように回収・請求するか:回収ノウハウが重要な知識・スキルであります。このスキルを高めていくことがローン営業の業績の決め手となります。
◆マーケティング:集客をどのようにするか、与信は?回収は?、なかでも与信をどのよう精度向上、いわゆる延滞率・貸倒れを如何に抑えるか、多店舗展開して与信責任は支店長が行うわけですから支店長の与信スキルの向上と標準化が求められます。
ある時、支店長、マネージャー、営業部長、営業本部長約20人が集まって与信勉強会を開きました。
ある支店長はCL(与信額、クレジットライン)20,マネージャーは30、部長は0(お断り)、本部長は50と見事にバラバラです。
これほど営業店によって与信の違いがあってはチェーンオペレーションとしてはやっていけません。
この与信で一番重要のことは「貸すか貸さないか」です。この貸さない基準、貸す基準のレベルを揃えることがとても大事なことです。もちろん貸付禁止基準は皆さん承知したうえで禁止基準に該当しないけど、というケースに対してなのです。
もしかしたら来店申込者は他人かも知れない、申込書に記載していることが虚偽かも知れない、誰かに無理やり申し込みをさせられているかも知れないなどを見抜くスキルが大事なのです。
また、よくあったケースが申込書の勤務先が「セブンイレブン、正社員」となっています。そのままの与信なら50ですが実態は「セブンイレブンのフランチャイズの○○商店という個人会社かも知れません。そこを見抜くには与信の経験、知識が必要なのです。このような見方は人(マン)しかできません。そして、貸すとなったら「与信をいくらにするか?」この分野はコンピュータ(マシン)を使ったスコアリングシステムが有効です。
「人(マン)とコンピュータ(マシン)を融合した与信システム」が多店舗のチェ-ンオペレーションには必要なのだと確信するようになりました。この組み合わせ(システム化)により「マン&マシン与信システム」のコンセプトを現実化しなければならいと与信勉強会とスコアリングシステムの開発と実用化を進めました。しかし、ことはそう簡単には進みません。
スコアリングで与信額を決めるとなると支店長の権限がなくなるのではないかと心配して、導入に反対異論が出てきました。それをどのように理解を広めるか、その打開策としてテスト店舗を決めて徐々に懐柔((笑))してゆくことにしました。
理論的に良くても人はそれほど簡単には理解したくないことも多いのですね。
また、徐々に導入することで改良改善されていき、自然と変化に慣れていつしかそれが当然だと思うようになっていくものです。
もちろんこの活動をあきらめずに先導者として説明して賛同者を増やす布教活動のようなことが必要だとQC活動の展開時に身に付けました。
◆貸金業法改正では大蔵省検査いわゆるMOF検が定められていました。3年に一度の立入検査が規定されていました。昭和61年だったと思いますが、突然、営業店4ヶ店へ検査官が営業開始前に現れました。営業店への検査への準備は会議を通じて対応マニュアルを作成して模擬テスト等をしていましたからどうにか営業店検査は乗り切れました。私は営業本部で逐次、支店長からの報告を受け、それを経営企画部長へ取り次ぐ役目をしていました。支店検査が終わると本社での検査です。本社での検査ヒアリングでもローン営業の説明役として参加しました。金融検査には4回も営業本部の仕切りを担当させて頂きました。
◆改正貸金業法にも対応してきたことで株式上場が動き始まりました。日興証券からの指導でプロジェクトを作り上場準備をすることになりました。最初の頃は「ムリだよ、監督官庁も許可しないよ」などと消極的な人が多数でしたが、平成2年に商工ローンの会社が店頭公開されるといよいよ消費者金会社も上場が出来そうだと本気になってきました。平成5年に店頭公開準備PJが発足して私はローン営業の代表に選ばれました。その日から経営企画部長常務の厳しい(笑)指導の下で準備が始まりました。私は昼間は営業本部、夕方からは本社の準備室へ行き、深夜遅くまで作業する日々が続きました。店頭公開は証券会社が証券取引所へ説明しますからその資料作りと担当者への説明などが作業でした。そして無事店頭公開が出来ました。
◆平成6年に東証2部へ上場申請することが決まりました。店頭公開準備PJメンバーのローン部門の責任者としてが担当することになりました。上場ヒアリングは禁煙室ということで関係者は禁煙することとなり私も機関車のように吸っていましたが平成5年4月30日に禁煙しました(笑)
ヒアリングはローン営業が中心でしたのでほぼヒアリングのたびに東京証券取引所の会議室へ行き、質問への対応に苦慮しながら対応しました。かなり窮地に追い込まれた質問もありました。どこかの誰かが「一人くらい自殺者が出ても仕方ないよ」という声が聞こえてきました(´;ω;`)
◆上場審査では「現場実査」があります。現場実査はローン営業店の新宿支店と新宿アルタ前支店のむじんくんが対象です。詳細はむじんくん編に記載しています。
◆上場審査は2年後の平成8年に東証一部指定替えでも1回だけありそこへもローン営業の代表で出席しましたが、2部上場審査に比べたら形式的なものでした。
◆平成8年に営業本部から事務効率推進部長として楽しかった営業本部を出て本社(九段)へ変わりました。事務効率推進部では全社的な「業務革新活動」を推進していました。高いコンサル料を支払っていて、評判がもう一つのコンサル先生もいて各部長はみんな後ろ向きでした。しかし、営業本部でやってきたことも営業本部の業革でしたから、それが全社になっただけだと思うことにしました。
業革には前向きではありませんでしたが、立場が変わると考え方も変わる、この言葉通りになりました(笑)
コンサルの方とは早く契約を終了して自前で推進するように担当役員からも言われていたので早々にプロジェクトを終了させて自ら業革を進めることにしました。
◆業革はどこから着手するか、QC活動:後のCS活動でもそうでしたがベンチマークするのが一番です。日本生産性本部や日科技連などで他社の業革事例の情報収集に努めました。そこで、各部において重複業務が多い、本業務ではない付帯事務を集中して事務センターを作ることを提案して許可が出て事務効率推進部の下部に事務センターを作りました。事務センターはその後、分社化を提案して子会社となりました。
◆営業店の店舗集中化でやり残していたことがありました。それは、契約書の保管管理を支店ごとに管理しているがそれを1か所に集中化できないか?事務効率推進部では営業店の営業帳票・契約書等の発送管理も行っていましたから、その逆で契約書を集中化して必要の都度集中センターから営業店等へ発送する、この集中化の提案を行い、契約書の集中化が始まりました。この部門もいずれ分社化となる。
◆アコムがビッグ会社になるにはたくさんの子会社があって本体とシナジーやコラボしながら大きな樹木になれると思っていて、その中で当時施行されたサービサー法に基づく債権回収会社が必要であるとの立場からサービサー事業へ進出することを提案して設立準備を進めました。このことは別途サービサーで詳しく説明。
◆余談ですが、趣味は麻雀とお酒とゴルフでした。ゴルフは昭和50年頃から始めたのですがなかなか上達しませんでしたが「ホ60人が参加の役員部長コンペで成すことが出来ました(笑) 美浦ゴルフ俱楽部15番ホール157ヤード、7番アイアン、ニューイングボール7番 打球は見事に舞い上がって中央に落下してバウンドしながらキレイにカップインしました。
その日の打ち上げパーティーで社長から現金でお祝いを頂き、それでキャディさんなどへお礼をさせて頂きました。感謝!
1.サラリーマンローン誕生
私が現在のアコムに入社したころの社名は丸糸株式会社でしたが、しばらくしてカタカナのマルイト株式会社となり、その後その子会社として現在のアコム株式会社下出来ました。
入社当時の社員数は100名ちょっとでしたが同業では既に大手の会社でした。いわゆるサラリーマンローンの金融会社が出来始めた時代でした。昭和40年台はまさに高度成長期です。団塊の世代が社会人になり一気にサラリーマンが増えた時です。
時代は、「巨人、大鵬、卵焼き」から「江川尾崎にハイセイコー」などレジャーを盛んに楽しむ人たちが「ちょっとお金を借りる」ようになってきた頃です。当時、若いサラリーマンにちょっとのお金でもお貸しするところは有りませんでした。借りるのは1万円、2万円ですから金融機関は相手にしませんでした。そこへ新進の金融会社が簡単に融資するのですからお客様が殺到しました。
2.外資系サラ金上陸
お客様が殺到してくると競争相手も出てきました。最大の競争先はプロミス、そしてレイク、武富士と店舗出店でもバッティングするようになりましたが、驚いたのは外資系の金融会社の上陸!でした。黒船来襲などと揶揄されてアブコ、アソシェイツなどが参入してきました。当時は情報センターもない時代でしたからどうしても多重貸し付けとなっていました。結果として延滞発生から色々な問題、事件なども発生して、マスコミから厳しい論調で自粛を促されていました。
3.サラ金の大躍進
当時のお客様は社保の方で工場や事務系のどちらかと言えば大会社のサラリーマンでした。しかし、競争が激しくなるにつれて「貸付基準」も緩和されて国保の方も対象となっていきました。そして、競争相手の数字も意識するようになって融資残高、顧客数、新規数等の比較競争が激化していきました。その最たるものは店舗数です。店舗は集客の最大ツールですから、新店を出せば全社の新規数は増加しますが、その勢いも緩やかになり、1店舗当たりの獲得数が減少傾向となりました。
その頃の貸付は「キャッシング」と言って「一定基準に該当したら30万円を融資する」ある意味、個人選別よりも属性マニュアル貸付でした。この方法は新店ラッシュで支店長の経験も浅いため、これで良かったのかもしれません。
大手も中小会社も大躍進、大成長した時です。しかし、一方では弁護士やマスコミからの批判も激しくなるばかりでした。全国サラ金問題対策協議会が結成されて多重多額債務者の救済と金融会社への批判、そして業法改正が盛んにマスコミを賑わすこととなりました。
◆貸金業法改正
消費者金融、そしてアコムにとって大変革を迫られた貸金業法の改正は大きく分けると2回ありました。1回目は昭和58年11月の大改正でした。そして2回目はそれ以上の今でも忘れられない平成18年の最高裁判例でグレーゾン金利の否定とその後の業法の大改正でした。
昭和58年の業法改正は平成20年の改正よりも相当悲惨なリストラをしないと乗り切れない程のものでした。「過剰貸付の禁止、取立て行為規制、上限金利の引き下げ」これが具体的に列挙された業界にとっては生死にかかわる業務規制の大改正でした。
業界では20数万社あった業者数がその後3万件に大激減したほどで、またアコムでも600店に迫っていた店舗数を200店舗程統廃合しないといけない状況に追い込まれました。
昭和59年、60年はそのリストラをどのように円滑に収束させるかが課題でありましたが、店舗を閉鎖すると異動したくない社員、将来に不安となった写真が次々に退職していきました。
◆みなし利息
従来から延滞者に対する取立ては請求、督促と言っていました。正当な権利で貸付金等の返済を促す行為ですから請求でも督促、催促でも良かったのです。
しかし、貸金業法改正により「利息制限法を超える利息については、借入者が任意に返済したものにつては正当な利息とみなす」という法43条が規定しておりました。
業法改正後も取立て業務については請求マニュアルを使っていましたが、みなし利息条項に対応するために、お客さまの返済を店頭で受け取る際は受取証書に署名を頂いており、ATMではその文言を返済時に入れておりました。そのような中で延滞者へ「請求、督促」では整合性が取れません。
◆カウンセリングマニュアル
貸金業法が施行されても期日管理、延滞者に対する入金案内はしなければなりません。
請求マニュアルの用語を変更するしかありませんでした。なんという言葉にするか、それは任意の返済を促す行為ですから当社からの一方的な行為ではなくお客様が任意に返済をするために「お客様の相談に乗る」姿勢、カウンセル、カウンセリングが適切である。また、社長の経営姿勢である「お客様第一主義、お客様第一義」に沿っており、経営方針に沿った分かりやすい言葉でもあった。請求業務を改め「カウンセリングマニュアル」を提案して改正となりました。当初は督促しているか、請求電話はちゃんとできているか、などとカウンセリングが馴染むには時間がかかりました。
◆海外視察
昭和61年だったか、業法改正ショックから少しづつ社内も落ち着いてきて、突然海外視察のメンバーに選ばれました。日建新聞社主催のアメリカ流通業界視察に流通関連のクレジットカード会社、金融会社、銀行などが参加していました。
後日追加
◆与信業務マニュアル
貸金業法が改正される前の与信方法に「キャッシング」がありました。大枠の貸付基準に合致したら30万円までを即決貸付するものでした。貸付金もマネージャ・店長決済で200万円まであり、その基準は非常にあいまいなものでした。
そこに改正貸金業法では50万円超過は「慎重審査」が必要となり融資審査課の決済となりましたが、50万円までは支店長決済、50万円超も最終与信権限は支店長にあります。
貸付基準はあっても個別、具体的、例題的なマニュアルはありませんでした。
与信スキルの向上は必須の課題でした。そこで、各支社、地区ごとに与信勉強会を開催して頂くようにしました。
その当時は、支店長候補、支店長、マネージャ候補、新任マネージャなどの役職階層別研修が盛んでしたが、そこへ与信勉強会の実施を推奨していました。
ある時、支店長、マネージャ、部長代理、支社長、営業本部長常務を交えた与信勉強会を開催したところ同じお客様に対して、断り、10,20,30,50,100とバラバラの与信でした。
正解は無いのです、最終的には支店長の権限です。その設定根拠もそれぞれバラバラでした。
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